経営日誌:その1 マイルス・デイヴィスと採用方針

〜写真:撮影するために山積みのCDから引っ張りだした1958年のマイルスのアルバム〜

月虹製作の設立から約5ヶ月が経ちましたが雪が少なくなったと安心をしていると、想像もしなかったような吹雪が襲ってくるものだと、そういうことも覚えはじめた札幌市民歴5年の安形です。製作日誌と題したブログを開設し、まだまだ内容の乏しい月虹製作のWebサイトから少しでも我々のことをみなさんに知ってもらおうと思います。わたしの場合は、経営日誌。技術的なことや製作現場の日常的なことはみんなに任せるとして、わたしは少し気軽に、わたしが日常的に考えていることや、超個人的な趣味の話題も含めて経営日誌として記していこうと、そんな趣です。

 

わたしの初稿として、内容があまり深刻なものにならないようにどのような題材が相応しいのかしばらく考えたのですがどうも話が重くなってしまいます。わたしの会社設立時の気の狂いそうな苦労話をここで書き、わたしがいかに未熟な人間であるのかを露呈する。そんな夢も希望もない話をするのはもっとずっと後のことにしようと、何度か書き終えたテキストを破棄して、改めていまこれを書いています。苦労話って書きたくなるし、みんなに知ってもらいたくなるんでしょうね。そんなところもわたしがまだまだ未熟だからでしょう。

 

マイルスとコルトレーン

わたしのような半端なジャズファンがマイルス・デイヴィスについて語ることができるのであれば、その人材発掘能力にあります。40年代のNYで、パーカーやガレスピーというすでにジャズマンのカリスマ的なミュージシャン達のなかに身を投じたマイルスは、50年代初頭には次第に独自のプロデュース能力を身につけ、自身が実現したい音楽に必要なミュージシャンを次々と発掘していくのです。50年代のマイルスのバンドメンバーで代表的な存在が、ジョンコルトレーンでしょう。すでに有名になり、クラブを連日満員にしていたマイルスのバンドメンバーにジョンコルトレーンが抜擢された背景として、マイルスの自叙伝では「人手不足」として語られています。(ソニー・ロリンズが継続的にバンドへ参加しなくなった)そして、当時のコルトレーンの演奏は決して評価の高いものではなく観客はブーイングさえも起こしたそうです。それでも、マイルスは彼を抜擢した。1955年あたりのことです。

マイルスが語るコルトレーンのエピソードに印象的なものがあります。バンドに参加したコルトレーンは、マイルスに「なにを演奏してなにを演奏すべきでないか」をいちいち聞いてきたというのです。マイルスにとってはさぞ面倒な新人だったでしょう。マイルスは「プロなんだからそんなことはいちいち聞くな」とも語っています。そんななかでもマイルスは、コルトレーンのサックスのなかにギラリと光るなにかを誰よりも強く感じとっていたのです。

 

それらのエピソードから得ることのできた情報で、わたしなりの解釈をして簡単に説明をすると、つまりマイルスはこの時、コルトレーンのサックスに未来を感じ、コルトレーンはマイルスを信じてがむしゃらに突き進んだ。たとえその時に誰一人、それを信じていなくても。ということなのでしょう。

 

一旦はバンドから抜け、その後も惜しみない努力を続けたコルトレーンは数年後再びマイルスのグループに参加し、好演を続けます。歴史的なアルバムとなったKind of Blueの録音後、再び自身のバンドで活動したコルトレーンは伝説的な演奏を残し、よりテクニカルに、精神性の高みへと昇りつめ、そして破滅に向かったのでした。マイルスはこのような天才的なミュージシャンを、その片鱗を見せるずっと前に発見し、そして育てたのです。

 

当社も、粗削りで下手くそで、まったく仕事ができないけれど、磨けばいつか光るダイヤのような人材を発掘しなければなりません。そして、決してその才能を埋もれさせないよう、誰にどう言われようとも、互いに信頼し合い、互いに成長していかなければなりません。そこで、月虹製作の採用方針を決めました。

月虹製作の採用方針

・とにかくWebデザイン、プログラムやエンジニアリングが好きなこと

その思いが我々に伝わること

自分を信じ、我々を信じることができること

そして、月虹製作は約束します。

・仕事は忙しく厳しいですが、全社員がサポートします

・社員の努力を無駄にせず、会社の利益に貢献した社員を正当に評価します

 

あともうひとつ。月虹製作へ入社する人はコルトレーンのように破滅はさせません。人生の相談も、わたしや社員が引き受けます。変な人ばかりなのであまりアテにしないことをおすすめしますがね。

 

ご応募お待ちしています。

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